ちょむすけ

強くなれ

平成から令和へ

今日は所謂「平成最後の日」らしい。その事実に変わりはない。世間では、ここ最近「平成最後」という言葉が飛び交い、ここ1ヶ月間は一生で最も「最後」という言葉を見聞きしたに違いない。そしてこの1ヶ月間で、私は人間の愚かさというか美しさというか、一言で表すならば面白さに惹かれていた。

「平成から令和」へ元号が変わる事に関して、「平成が終わる」と「令和が始まる」の2つの事実がある。しかし、世間は圧倒的に「平成が終わる」という事実に対して異常に固執する方が多く、無理矢理にでも「最後」という価値を付けたがる人間に対して少し滑稽さを感じた。その人間は、どこまで遡って最後という価値を付けようとするのか。平成最後の金曜日、平成最後のコーヒー、平成最後の食事。考え出したらきりがなく、そんなところまで?ってところまで「最後」という価値を付けたがるのだろうか。非常に気になります。

「最後だから〜しなきゃ」と時間を惜しまず、最後の何かを成し遂げるのだろうか。また、果たしてその価値をつけた所で数年後覚えているのだろうか。新元号に変われば、「令和最初の」という価値を同じように付けていくのだろうか。幸せな人だ。全ての物事に価値を見出す天才に私もなりたかった。

私は、私が持つ価値を全てのものにバランスよく分け与えることができない不器用な人間であり、世間一般からすればつまらない人間であるに違いない。だが、世間の目は気にしない。一極集中で良いのだ。忘れることのないように。だから私の「平成最後」は、令和元年00時00分00秒(以下略)の瞬間にとっておく。その瞬間何をしていたか、誰といたか、それだけでいい。それ以外については、「平成最後」という価値を何事にも与えなかった。実際この投稿が平成最後の投稿に違いないが、こんなもの一年後には忘れてるさ。令和になる瞬間は死ぬまで忘れないだろう。

 

それでは皆さんにとってよい「平成最後」を。

 

プロポーズ

ふと思いました。私は(既に1度プロポーズをしましたが)これから先、婚約者に何回プロポーズをするのでしょうか。楽しみで仕方がありません。恐らく、私が死ぬまで一生プロポーズし続けるでしょうね。ウザいと言われても。

最初のプロポーズは、その時までに見つけたあなたの魅力から「結婚しよう」と伝えました。

でもそれだけでは何か勿体なく感じます。

この先、生きていく中で新しい魅力を見つけ、想い出が増えていくことでしょう。それらも含めて、またプロポーズがしたい。

あなたの魅力を私の中で更新し続けて、その都度プロポーズがしたい。それは、結婚してからも変わりません。プロポーズは1回だけって誰が決めたのでしょうか。なんか楽しそうじゃありませんか。

重ねる毎に深みのあるプロポーズになるに違いありません。

私が死ぬ前、最後のプロポーズはどんなプロポーズなんでしょう。とても楽しみです。また、楽しみにしておいてほしいものです。

 

なんて素晴らしき世界

この投稿を公開するまで、上手く書こうと何度も下書きを保存しては消す、ということを繰り返していましたが、素直に、正直に、大胆に伝えることが大事だと思ったので、ストレートに書いてやりました。それが一番いいと思います。

 

2019年3月3日深夜、私は1人の女性にこう言いました。

「結婚しよう」

酔っていたからではありません。この言葉を本気で受け取って欲しいがために、その日はあまりお酒を飲まないようにしていましたから。驚かれるかもしれませんが、その女性とはお付き合いしておらず、恋人ではありませんでした。しかし、愛する人に変わりはなく、どうしてもその愛を伝えたかったので、私が知っている最上級の愛のかたちを言葉にしただけです。恐らく、それ以上の言葉があれば何も躊躇わずにその言葉を伝えたでしょう。

好きという言葉も当てはまる、愛という言葉も当てはまる、結婚という言葉も当てはまる。だからもう恋人になってくださいとかじゃなくて、そんなんじゃなくて、結婚しようって。それだけです。1人の人間として、1人の女性として好きで、愛している。それはもう結婚しかないでしょう。誰になんと言われようが、素直に、正直に、大胆に生きると決めたので。誰かに取られる前に婚約してやりましたよ。

 

オチはありません。ただの報告でしたので。最後に1つ。なんて素晴らしき世界でしょうね。

嘘と真実

以下に書き記すものは、嘘と真実どちらかである。

・私は1人で生きたい。

・人間が嫌いである。

・私に対する言葉は全て嘘だと思っている。

・人と接するときは、はやくその顔の裏にある本当の顔を見せろよとばかり考えている。

・私が少しでも相手に対して好感を持ったとき、それは負けだと認識し、殺意とも呼べるような憎悪を抱き続け、無に帰す。

・いつか別れが来たときに辛くならないように、ある一定の距離感を越えたら突き放す。

 

実は全て嘘でもあり、真実でもある。受け入れられなくても良い。受け入れられる、受け入れられないの前に、本当の自分を見せることが重要。嘘で固められた自分に縛られるのはもう御免である。嘘の自分と本当の自分の区別がつかなくなったときが1番怖い。

私は主食である。そしてあなたのおかずでいたい。

美味しいものを食べるって幸せなことだなって思うんです。美味かろうが不味かろうが人は食べなきゃ死ぬんですけど(笑)。さて、今日シャワーを浴びて思ったことがあります。人生は食事と似ているのではないかと。

 

今日のお昼は何を食べましたか?まずは主食から思い出してください。米、パン、色々あるでしょうが、主食があったはずです。それをあなた自身だとしましょう。あなたの人生を献立に見立てれば、主食つまり主役はあなた自身です。主食がない献立もあるじゃないかという意見は受け付けません。つまらない人生ということでお引き取り下さい。

 

次に、おかずは何でしたか?美味しいおかずでしたか?主食と合うおかずでしたか?そのおかずを、あなたと関係のある人に見立てましょう。主食と合うおかず、つまり、あなたという主役と相性の良い人間ならば、それは美味しい食事となるわけです。なんか、人生は食事と似ている気がしませんか。パンと鯖の味噌煮が合うはずがありません。美味しい人生を送りたいのであれば、自分と相性の良い人間と同じ空間にいたいでしょう。食事だって同じです。

 

私はよく学食に行きますが、お米と合うおかずを選んでお盆の上に乗せます。それが私の人生です。「白米=私」と合う「おかず=人間」を選んでいた事に気が付きました。そして思いました。私が、私に合う人間を選ぶように、私が、誰かに合うおかずとして選ばれたいと。誰かの人生の一部でありたいと思いました。

 

しかしこれもまた面白い所で、主食がお米だったりパンだったりと、自分自身が変わる事もあり、それに合わせておかずも変わるものです。また、カレーのように主役だけの食事もあるのです。でもそれは悪いことではなくて、ある日の、ある時間の食事が、人生の全てではなく、時によって変化していくものです。それは人生も同じではないですか?毎日毎食同じ献立では飽きるでしょう。自分自身が変わり、周りの人間も変わり、和風、洋風、イタリアンなどジャンルも変わる。実に面白い。だから私も、おかずでありたい誰かが変わってしまったら、その主食に合うおかずに変わる。そうなれたらいいなって思います。主食しか要らないってときは、選ばれるまで待ち続けることも必要だと思います。

 

私の食事の一部になりませんか?そして私をあなたの食事の一部としてくれませんか?

 

 

最高の瞬間、それは死であると思う

22年間生きてきましたが、今までで最高の瞬間は?と聞かれましても答えられないのが現状であります。楽しかった、嬉しかった、幸せを感じた瞬間は数え切れないほどありました。しかし、どれも最高の瞬間ではありませんでした。いいえ、最高の瞬間とは思いたくありませんでした。なぜなら、最高の瞬間=人生でたった一度の、一瞬の出来事であるからです。

 

そもそも最高の瞬間とは何でしょうか。それは、自分1人で完結するものでしょうか。私はそうは思いません。私の愛する人たちと、共に、生きていることを感じる瞬間。それが私にとっての最高の瞬間であります。

 

今まで感じたことがないと言えば嘘になります。正直に言うと、今が最高の瞬間ではないかと思っている所もあります。しかしながら、恐らくこの先、想像もできないような最高の瞬間が待ち受けているような気がするのです。いや、待ち受けていて欲しいのです。今ここで最高の瞬間を決めてしまえば、この先の人生、最高の瞬間なんて来ないわけです。

 

すなわち、死。

 

最高の瞬間を感じてしまったが最後、その先の人生は幕を閉じます。それは生きていたとしても死んでいるのと同義です。したがって、私が最高の瞬間という言葉を口にしたときは死ぬときだと思います。逆に言えば、辛くて、悔しくて、情けなくても死ぬことは絶対にないわけです。安心です。

 

私が死ぬとき、それは、最高の瞬間を感じたとき。どうか生物学的死の前に、私を死なせてくれ。私の愛する人たちよ。

 

 

 

 

まだ少し早いですが、卒業

別れの季節ですね。本当にこの時期は寂しくて切なくて、今年は一層にも増して切ないです。その寂しさや切なさを、どうやって乗り越えたらいいのでしょうねって毎年考えますが、いつの間にか春が来て新しい出会いがあって、忘れちゃうんですよね。それもまた切ないです。

 

出会いってなんなんでしょうね。別れがこんなに辛いなら誰とも出会わなければよかったんですかね。人間1人で生きていけるなら、こんな思いしなくていいのは明らかなんですけどね。まぁ1人で生きていくことなんて無理なんですけど。残念ながら?有難いことに?

 

いや〜、でも私は本当に人に恵まれてますよ。いいのかってくらい。なんで俺みたいなやつにみんな寄ってきてくれるのって感じ。本当は1人で生きていたいって強がってるけれど、人に支えられてるんだって強く思われてくれる。なんかとても悔しい、恥ずかしい、嬉しい。

 

だからとてもこの先が怖いのです。この人たちといずれ別れたときに、今までにないくらいの悲しみを背負うことになるのだから。あと2年仙台にいる人達とは、恐らくもっとお互いのことを知るでしょう。多くの思い出ができるでしょう。とても楽しみです。反面怖いです。これ以上、関われないなとも思います。

 

でも決めたんです。

 

ここまできた以上、もっとお互いの人生に、お互いの名を、そして思い出を刻みましょう。そして2年後の別れ、思いっきり泣きましょう。泣かせてください。私も泣かせます。

最高の2年間にしましょう。これからもよろしく。